『ただいま』

呟いた声が、静寂に小さく響く。
返らない返事に、暗い部屋。
そりゃそーだよな、と、ため息をついた。





   愛情と、親愛と、信頼と





視線を落とすと靴があるのが目に入ったから、帰ってきてはいるらしい。でも、多分寝てしまっているだろう。
ついさっき携帯で見た時間は、日付が変わって1時間後を指していた。
本当なら今日はもっと早く帰ってくるつもりだったのに、教授に捕まってしまい飲みに付き合わされたせいで予想より随分遅くなってしまった。

(…明日も野分、病院だって言ってたから今日くらいゆっくりしてやろうとか思ってたのに。つーか、自分が帰りたくないからって人を付き合わせるなってのに)

酒がすすむにつれて、ぽつりぽつり恋人の愚痴だか惚気だかよく分からないものに教授の話が移行したため、なんとなく飲みたい理由は分かったが。

(だからって、俺がイケニエにならねばならん理由はないと思う)

内心で教授に悪態を吐きつつ、リビングの明かりをつける。
スーツを脱ぎながらテーブルに近づくと、紙が置いてあるのに気づいた。
手に取ると見慣れた文字。

『おかえりなさい、お疲れ様でした。冷蔵庫に夕飯の余りが入ってるのでよろしければどうぞ。
 もし食べて帰ってるようなら、明日食べて下さってもいいです』

メモを小さくたたんで、ポケットに入れる。ありがたく明日頂こうと踵を返し、自室に向かうためできるだけ静かに廊下を歩く。
起こしたら悪いから。どうせ疲れていて爆睡中だろうから大丈夫とは思うが。
早く風呂に入って寝よう。自分も同じくらい疲れてはいる。
そう思ったのに、ぴたりと足が止まった。野分の部屋の前で。

(……なにしてんだ、俺)

でも、昨日も一昨日も顔を見ていない。
多分明日も自分が起きる頃には既に病院だろうし、明後日は……どうだろうか。
互いに忙しいから仕方ないのは分かっているし、一緒に住んでいるとは思えないくらいすれ違いの多い生活にも慣れてきてはいるけれど。
でも、全く顔を見ていないのは、少しだけ寂しい気もする。
だから、少しだけだ。少し顔を見るだけ。

言い訳を内心呟いて、ドアノブをゆっくりと回した。
起こさないよう静かにベッドに近づくと、カーテンの隙間から漏れる月明かりの下、穏やかに眠る恋人の姿。
規則正しい寝息が小さく聞こえるのに少し、ほっとする。
見慣れた端正な顔を暫く見て、ゆっくり手を伸ばす。髪に触れる直前で手がぴたりと止まった。
起こしてしまうと悪いからと思いつつ、ゆっくり手を引いた。のに、

「……ヒロ…さん?」

目を開けた野分と目があった。
霞がかったようにぼんやりとした目が、確かにこちらを見ている。

(マズい)

せっかくよく眠っていたのを起こしたのが申し訳ないのもあるが、ここに自分がいる理由も言い訳ができない。
顔を見たかったなんて理由を言える訳がなく、苦し紛れに笑ってみたら(それは、大概苦笑いだったんじゃないかと思うのに)ぼーっとしていた野分の表情が、ふわっと柔らかくなった。

「……ぉかえりなさい…」

小さく笑ってまた目を閉じて、すぐに規則正しい寝息がもう一度聞こえてきた。
月明かりの下だからか、やけに優しく綺麗に見えた笑みに、すこしだけ頬に熱が集まるのを感じ、ぶんぶんと頭を振ってみる。
珍しく寝ぼけてたようだから、明日になったら忘れてるだろう。つーか、忘れててくれ。
そう思いながら、注意して、触れるか触れないか分からないくらいの繊細さで、そっと髪に触れてみた。

(ただいま)

心の中で呟いて、ゆっくり立ち上がり、足早に部屋を出る。
なれないことはするもんじゃない。気恥ずかしさとともに自室に向かった。
ただ、少し今日の疲れもとれた気がした。








そんなことがあった翌日の昼下がり。喫茶店にて。

これだけ広い都会。
偶然知り合いに会うことなどそうそうないはずなのに。
何故か、どういう訳か。
向かいには苦手に思う人物が座っていて、のんびりとコーヒーなんか飲んでいる。
目があうと、面白そうに(馬鹿にしているようにも見える。被害妄想かもしれないが)こちらを見て笑った。
自分の眉間にシワが寄るのが分かったが、直す気もしない。

あ〜〜……何でこんなことになったんだ?

思い起こすのは15分程前。
朝、起きると10時を回っていて(案の定野分はいなかった)、みそ汁を温め、昨日の夕食の残りを食べた。
ざっと部屋の片付けと洗濯をして、しばらく忙しさにかまけて行けなかった本屋に向かった。
新刊と以前から欲しいと思っていた本を数冊買い、昼飯時は過ぎたものの何か軽く食べようかと入った喫茶店は、以前野分とも入ったことのある店だった。
客は多くないが雰囲気のいい店で、出てくる軽食もなかなか美味しい。
窓際の席に座り、サンドウィッチとコーヒーを頼む。
食べ終わり、ガラスの外をぼんやりと眺める。寒空の下歩く人たち。カップル、親子連れ、友達同士……その中の一人に目が止まった。

(なんか、見覚えがあるような気がす……げっ)

目が合った瞬間それが誰なのか分かり急いで視線を外したのに、向こうが気づいたらしく寄ってきて、ガラスをこんこんと叩かれ、そこまでいくと無視する訳にもいかず。

そして今に至る。


「せっかく非番の日に会えたのに、機嫌悪いですね」

アンタが目の前にいなけりゃ、そーも悪くなかったんですがね。
そう思いながら、流れで注文してしまったカフェオレを一口運んだ。
目の前にいるのは、野分の先輩で、確か名前は…ツモリ?とかだったような気がする。
色々あって俺が一方的に暴力を振るったりしたせいで気まずいのもあるし(もちろん申し訳ないのもあるが)、そもそも苦手なのだこの手のタイプは。

(……でも野分にとっちゃ、信頼してる先輩なんだよな)

一緒に飲みに行って、羽目を外せるくらいには。
それが分かっているから余計にイライラするのかもしれない。
アイツの一番が自分だと分かっていても、俺の知らない野分を目の前の男は知っているはずだから。


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